私の神 2 - MY GOD 2

後でも説明しますが、今から人類の技術と、神の地球への降臨について述べようと思います。惑星が死んだり、住んでいた太陽系の一部が失なわれると、“彼ら”は別の太陽系を見つけなくてはなりませんでした。生きる物にとってこれは容易なことではありません。さほど過酷な条件でなければ、我々は生き延びることが出来ます。

エスキモーは一年中雪と寒さの中でアフリカ大陸の人々は常に灼熱の中で快適に生活しています。また、山頂で生活を営む部族もいます。こうした人々は、環境にうまく順応することが出来た訳ですが、もし、どこか別の場所に移住すれば、多くの健康上の問題を抱えることになるでしょう。

大古の記録によると、地球には数多くの宇宙からの訪問者がやって来た様です。聖書にも、彼らに関する記述があります。冒頭でも述べた様に、宇宙人達は新天地を求めて地球にやって来た様です。

太陽系の中で理想の環境を見つけることが出来なかった彼らは、何とか暮らすことが出来そうな地球に辿り着き、即座にこの地に住むための準備に取り掛かりました。そして宇宙人達は今でも、この星に棲み続けているのかもしれないのです。しかし彼らは人間が踏み込めない場所、例えば海の底等に住んでいる公算が大きく、我々が宇宙人の棲み家を発見することは不可能でしょう。地球環境も大気汚染が進んだせいで、彼らにとって最早暮らしやすいものではないのかも知れませんが。

アメリカのニューメキシコ州で、数体の宇宙人の死体と彼らが乗って来た宇宙船が発見されたという、かなり信憑性の高い情報があります。しかし50年近く経った現在でも、この事件が公表されていないのは何故でしょうか。私の学生時代の恩師はこのUFOを調査しましたが、恐怖の余り機体に触れることさえ出来なかったそうです。

そのUFOには人類の科学技術など足元にも及ばぬほど高度なものが使用されており、彼らにはUFOの原動力を理解することすら出来なかったといいます。また、宇宙人の生態も我々とは大きく異なり、身長は3 〜4フィートにも及びました。ニューメキシコ砂漠にクラッシュした宇宙船が発見された時、宇宙人達は、全員機外で死亡していたそうです。彼らは何の目的でやって来たのでしょう。何故人類に関心を持ったのでしょうか。

UFOにさらわれたと思われる行方不明の人の話も数多く存在します。二度と戻って来ない人が大半でしたが、中には帰ってきたケースもあります。しかし、彼らは人間に姿を変えた宇宙人かも知れないのです。 そうした人達は、神に選ばれた存在だったのかも知れません。神は出来る限り多くの場所を訪れ、そこで暮らすことを望みました。そしてその実現には☆ホスト☆として手を貸してくれる人間と必要したのです。

彼らは神の望みに叶う様、動物達に繰り返し改良を加えました。現在でも、私たちの祖先と思われる動物が存在しているのはそのためです。多くのヒト科の動物の存在は彼らが行った様々な実験を物語っています。それは、さらに人間の進化にも影響を及ぼしました。神に取っても、神の僕である人々に取っても時間など問題ではありませんでした。神は時を超越しているのです。

殆どの宗教においては「輪廻」が信じられています。恐らく、神が無数に分かれ私達一人一人、その他動物の肉体の中に宿るのでしょう。神を生んだ自然、人間が神から授かった知恵、神が理想とする人間の姿を考えずに、真の神の姿は知り得ません。 神が人間を支配していると言っても、神は唯、僅かに私達の気持ちを左右するのみなのです。そして神の声は余りに小さいため、残念ながら私達は神の声に耳を傾けないことの方が多いのです。

人が死んでも、その心に住む神が滅びることは決してありません。神は生まれた場所に戻り、修行を積み、また、新たな生命に宿るのです。そして、悲しいことではありますが全ての神が善い神ではなく、善良な神と邪悪な神の間で決闘が起こります。もしも、彼が善良な神を助けようとしなければ、彼の心も邪悪になるのです。

人生とは、神から与えられた義務を果たしていく作業です。人間が死ぬと、その果たすべき義務も消滅します。そして、我々にその義務を課したであろう神も我々の肉体を離れて行きます。神が新たな肉体に宿る時、彼は前世で学んだことを忘れてしまいます。しかし、泳ぐ力をはじめとする反射神経を忘れることはありません。産まれてすぐ泳ぐことが出来る、人間の祖先の一つとされるイルカの赤ちゃんに似ています。

私たちの中に宿る神に心を開き、かすかではあるけれども進むべき道を教えるその声に耳を傾けている限り、私たちは決して希望を失うことはありません。私は、自分の心を開き神と対話するために、神社、寺院、教会、森や山など、静かな場所によく行きます。神の声はとても小さく、うっかりすると聞き逃してしまいそうです。神と対話をするには謙虚でなければならないのです。つまり、神の声を聞き取るも聞き逃すも私達次第なのです。

私達はよく「これが正しい」と、感じますが、これが神の声なのです。そして、もしも誤った考えが入り込みそうになっても、賢明な私達は、人を傷付けたりすることは神の意志ではないことに気付くはずです。神に出会うには、瞑想し心を空にすることです。私たちに正しい道を教えようと、必死に語りかけてくる神の小さな声に耳をすませるのです。私は、これまでの人生で、そのようにして幾度となく神の導きによって救われて来ました。

神をその心に持たない者を人間と呼ぶことは最早出来ません。その昔、アメリカ原住民達は人の心が病むのは、彼の心が肉体から離れ神と共にあるからだ、と考え心の病んだ人を神に守られた者としてとても丁重に扱いました。 神が私達人間にお望みになるのは、道を踏み外すこと無く精一杯生き、学ぶことだけなのです。