茶の道 - The Way of Tea

奈良時代(710-794)に中国から伝わり始まった日本の茶道は長い年月をかけて発展してきましたが、そこには多くの人が携わって来ました。数多くの著名な茶人達の中でも最も高名なのは千利休(1522-1591)でしょう。

利休は師匠の大師範・武野紹鴎(1502ー1555)から茶道具の台(台子)の本来の使用法とわびさびの精神を学びました。

利休より前の時代を生きた大師範の1人、村田珠光(1422-1502)は、茶の用意をするための部屋と、客をもてなす際は同仁斎と呼ばれる隣接する四畳半の部屋の二つの部屋使用するという中国の伝統を踏襲しました。今日でも茶室の広さは様々ですが、この同仁斎の四畳半が概ね茶室の標準的な広さとなっています。この四畳半という広さは、釈迦の死後100年生きたユイマというインドの僧侶が暮らした部屋の大きさだと言われています。

千利休は、日本独自の茶の道を確立するという不滅の金字塔を打ち立てました。16世紀終わりのことです。

江戸時代(1600-1868)以前には、茶道は僧侶や支配階級の間でのみ愛好されていましたが、利休は貴重な中国の茶道具だけでなく、伝統的に日常生活で用いられてきた物を茶の席に取り入れました。客の前でお茶を立てて出すという流儀を生み出したのも彼です。当時利休は豊臣秀吉専属の茶人として保護されていましたが、ある時秀吉の怒りを買い切腹を命じられます。秀吉は後に利休を許しますが、利休は主人が初志貫徹することを望み自ら命を絶ちます。昔の人々のこうした行動を理解することは我々にとって容易なことではありません。

利休がもたらした茶の道における様々な改革は、使用する道具においてもそれまでの高価な中国のものから日本で作られた簡素な茶道具への移行を引き起こし、多くの人達が茶道に嵩じるきっかけとなりました。

さらにこうした動きは日本の伝統的な美術にも大きな影響を与えることとなります。中国や朝鮮半島の影響が見られるとはいえ、日本でも職人達の手により茶道具が作られる様になりました。

最近の風潮は、茶の席で日常品を用いることに対して益々寛容になって来ており、優れた作家が数多く生まれています。