須佐之男の国 - Susanoo's Country

須佐之男が実際にどの国から来たのかについては、ほんのわずかな伝説で述べられているに過ぎません。その中の一つに、紀元前1000年ころ、若さの泉を見つけるべく3000人の職人と共に秦の皇帝によって中国から東方の地・日本へ送られた、という説があります。

当時の船はあまり効率的でなかったため、たくさんの船が必要とされました。故に、彼らが本州や九州の北沿岸に漂着したのは当然の帰結であったといえます。間もなく彼らは、農耕や医学およびそのほかの技術に関する知識を基に、流れ着いた先々で遭遇した穏やかな気質を有する農耕部族に対して宗教的指導者、シャーマン、および支配者といった指導的役割を果たすようになります。 そしてこれこそが、後に強大な勢力を持つに至る出雲の国の原型だったのです。

集団を率いた須佐之男はまた、国の指導者としてそれを築きまとめることに力を注ぎました。 須佐之男が朝鮮半島から渡ってきたという説に私は組しません。もう1冊の本に、彼が息子(オミズヌ?)と共にかの地に出向いたものの、気にいらず戻ってきたという話が出ていたのです。このことから須佐之男が朝鮮半島から来たのでないことは明らかです。

時を経て、須佐之男の統治した国は本州の北沿岸、さらには南方にも勢力を伸ばし、遂には本州のかなりの部分、そして九州の一部を平定するに至ります。このことは須佐之男が中国からの集団を統率していたこと、彼が出会った指導者たちが須佐之男同様力を持っていたことを考えると容易に理解できます。また、このことから出雲の国がこの国の始まりであるともいえるのです。

年老いた須佐之男が「黄泉の国」へと旅立った後、残された指導者たちの手により出雲の国はいくつもの小さなの国へ分裂しました。そして、互いに争っていた多くの小さな王国を平和裏のうちに統一した卑弥呼(または、ひめこ)という名の女性シャーマンに率られた伝説の国・邪馬台国もその中の一つであったのかもしれません。中国では彼女の名をピムコと発音しました。

卑弥呼に関する記述は、3世紀に物された書物「魏史」に詳しく、その中で彼女はシャーマンとして紹介されています。卑弥呼は西暦170年から亡くなる247年までの間国を治めたといわれています。その後新しい王が位に就きますが、再び内乱が起こります。そこで、壱与(いよ、またはいちよ)という年のころは12になる娘が新たなシャーマンとして選ばれました。彼女についてもまた、中国の書物に詳しい記述が見られます。西暦266年を境に日本に関する記述は途絶え、その後150年にわたり邪馬台国の名は書物から姿を消します。中国人がを訪れたとき、邪馬台国は既に消滅していたということです。彼らはどこに消えたのでしょう。私たちは残された記録とわずかばかりの常識を基に、彼らに一体何が起きたのか推測することができます。

邪馬台国は、充足的で平和的な統率の取れた民から成る共同体社会であったと中国の記録にあります。また、卑弥呼は南方からの外的の侵略に抗するため絶えず中国に助けを求めていたようです。その敵とは何者だったのでしょう。彼らは、くまそ、またはクヌと呼ばれる部族でした。くまそが日本に王国を築いた、とする記録が存在しますが、時期があまりにも早すぎるため史実ではないと思われます。

彼らは日本紀や古事記に反乱者として登場し、策略によって制圧されたとあります。しかしながら、文書による記録が皆無であることから控えめに言ってもこの説は論拠に乏しいと言わざるを得ません。私は彼らがマレーシア、あるいはフィリピンからやってきた別の集団であると確信しています。現在でも九州の人たちは独立心旺盛で個人主義的気質を有しています。私は自由闊達な彼らが大好きです。

邪馬台国の民が自分たちよりもはるかに戦に通じた侵略者たちと対峙していたことは事実です。邪馬台国のように安定した社会構造を持つ国が、小さな国の侵攻に屈するなどということはありません。これは私の推測ですが、それゆえに自らの国がくまそに悩まされているのを目にした壱与は、別の土地に移ることを決意したのではないでしょうか。

国を挙げてより安全な場所へ移動することを余儀なくされた彼らは、南方で生活することはもはや不可能であったことから、東方を目指しました。北に向かったとも考えられますが、非友好的な北の王たちはたとえそれが平和的な人々であっても、外部からの進入者を好みませんでした。このことから、やはり彼らは東に向かったものと思われます。

絶えず戦と共にあった旅は何か月にも及んだにちがいありません。そして彼らが見つけた、平和的な人々の暮らす唯一の場所が奈良地方に存在しました。後の大和であるその地は、農業にたいへん適しており、彼らは友好的な農耕部族の原住民たちと共に偉大な国を築きました。その農耕部族とは、須佐之男の国の住人たちであったのかもしれません。この間数百年にわたるかような発展の中で、誇り高く強大な勢力に属することは好ましいことであると判断した彼らは異人種と血縁関係を結んでいきます。同じことが今日でもいえます。

私たちはここから日本についてどのような結論を導き出すことができるでしょうか。日本で初めて高度な文明を有した種族は、後に出雲の国の住人となる人々だったのです。優れた指導者を欠いたことから崩壊してしまいますが、彼らは日本で最初の帝国を築きました。そして、その帝国こそ邪馬台国、ひいては大和の始まりだったのです。日本は出雲の国でその産声を上げたと言わねばなりません。日本最古の書物において出雲は、歴史上最も重要な場所として登場します。これ以外にどんな推論が成り立つというのでしょう。

しかしこの後、事態はたいへん複雑な変化を遂げます。彼らがどこからやってきたのか突き止めるべく、外国の歴史書を数多く読まなくてはなりませんし、また、民話にも目を向ける必要があります。以前、日本に最初に定住した部族の起源を探るためにこの手法を用いましたが、今回は現在の日本の皇室の起源を知るべく同様の作業が必要です。たいへん時間のかかる作業ですので、これについて論じるのは次の機会に譲りたいと思います。

邪馬台国は九州がその発祥の地であるとする、九州説を唱えるる人たちがいます。一方で奈良にあったと主張する人もいます。俗にいう畿内説です。出雲の国が邪馬台国の起源であるならば、どちらの説も間違いであり、私が主張しているように九州で誕生し奈良に移ったのであれば両方正しいということになります。畿内説について私は懐疑的です。奈良はあまりに遠すぎて、出雲王朝が奈良まで勢力を伸ばしたのでもない限り、そのようなことは起こり得ないはずです。おそらくこれが事の真相でしょう。

出雲の国は偉大だったのです。 邪馬台国の存在自体を否定する人がいますが、中国の書物においてきわめて克明な描写がなされていることから見てあり得ないことです。われわれの目的は、伝説や神話を手がかりに、実際に何が起きたのかを知ることにあるのです。私はこの作業をとても楽しんでいます。私が最も知りたい国について学ぶすばらしい機会を与えてくれるからです。4世紀以前の日本については何もわかっていません。皆さんはこの時期どんなことが起きたと思われますか。

後になると、朝鮮半島から九州へ渡ってきた者たちが、日本全土の征服を企て奈良にまで手を伸ばします。この者どもの企みは、幾多の失敗の後成功を収めます。私の推測では、こうした連中は奈良に住んでいた人々と交わり大和、ひいては今日の日本を形成していったのではないでしょうか。 このことから察するに、この者どもは九州に戻り自分たちが去った後九州に住みついた部族を制圧した模様です。この出来事に関する記述が、3世紀に記された伝説にも見られます。