淀江 - Yodoe

ほかのどこよりもニュースになっていることから、おそらく淀江は鳥取県で最もよく知られている町でしょう。 淀江は、山陰地方の日本海側に位置するたいへん古い町です。一見したところ、鳥取県内のほかの小さな町と変わらないように見えますが、その外観の平凡さにだまされてしまいます。

淀江は、古代の仏教寺院と絵画の破片が数点出土した所です。このことは、淀江が日本最初に仏教が伝来した場所の一つであったことを物語っています。この絵画は1300年以上も前に描かれた日本最古の仏教壁画です。

初めて日本海を見たのが淀江の海岸だったことから、淀江は私の目にいつもロマンチックに映ります。その光景はたいへん美しく、決して忘れたことはありません。

淀江の名が知られている理由に、最近になって発掘された上淀廃寺の存在があります。この寺院は日本で最も特異でかつ最も古いものの一つであることがわかっています。そして、この寺はこれまで見つかったほかのどの寺にも見られない特徴を有しています。

発見された二つの三重の塔の跡は、それぞれ寺の東側の南北に位置していたのです。このような配置を見せる寺は日本、中国、朝鮮半島でもただここ一か所です。だれの仕業でしょうか。

仏教が6世紀のたいへん早い時期に日本に伝来したことはわかっていますが、今回の発見は、山陰地方が古代日本において仏教伝来の地の一つであったことをさらに裏付けるものです。塔の位置がなぜ異なるかについては明らかになっていませんが、寺院の配置に関する計画を何者かが変えたとは思えません。このことについて推測するつもりはありませんが、日本の歴史について語る際、山陰地方の歴史を無視してはなりません。

上淀廃寺は、将軍に反乱を企てたかどで隠岐に島流しにされた後醍醐天皇が島抜けしてきた所と同じ場所にあります。島を抜け出し帰還した後、後醍醐天皇は鎌倉幕府を滅ぼし、元弘の復興が幕を開けます。元弘の復興はわずか3年で終わりを迎えますが、これは約50年間続いた二人の天皇が存在する時代の始まりでもありました。

研究員たちは、今回発見された美しい絵画は奈良地方のものの模倣であるとの主張を試みていますが、この絵画は奈良のものより古いのです。そして、これまで日本のどこにもなかった特異な配置を見せる二つの塔を有する古い寺院の発見です。

科学者たちは、これはこの地方の族長が考え出したものものではないかと主張しようとしています。しかし、これは仏教を伝えるべく山陰地方に人々がやってきたのは、非常に早い時期であったことを物語っているのではないのでしょうか。こうしたことは、新たな発見や事実が我々の文化に及ぼした真の影響を理解することよりも、むしろ既存の歴史解釈を守っていこうとしている人がいることを示しています。

このことはまた、我々のこの地が文化の始まりである美術において、奈良と同じか、あるいは奈良以上に古いことを物語っています。もちろん、縄文時代、または弥生時代の土器は日本全国で発掘されていますが、山陰地方ではそれ以前の時代の小型の石器や貝塚が発見されています。

貝塚は海洋民族によってもたらされたものです。彼らは、南太平洋、あるいは南アジアからやってきたに違いありません。 このことは、古代に移住してきた人たちのうち、第1期と第2期に相当する人々がそうした地域から渡ってきたという学説とも一致します。

第3波と第4波は北方、あるいは朝鮮半島からやってきました。もちろん、これまでも主張してきたように、これら四つの時期の移民たちの中には、それ以前に北欧などから渡ってきた人々は含まれません。

この地方では、このような事象が多く見られます。日々、出雲の国が日本のふるさとであることを考古学的に証明する発見がなされています。私もそう信じています。 丘陵を発掘するたびに古墳が発見されています。

出雲の国は多くの人々が集う巨大な国であったに違いありません。こうしたことを目にして、皆さんはご自分のふるさととその歴史に誇りを感じませんか。

私は、個人的な調査や研究を通して、自分がこの土地にいること、この上なくすばらしいこの地域社会の一員でいられることを誇りに思うに至りました。