安来節 その一 - Yasugi Bushi 1 (Song of Yasugi)

安来節 その一

安来節は日本において最も知られ、同時に最も難しい民謡の一つに数えられます。歌いこなすには特別な技量を必要とし、ほぼ同時に高音から低音まで発声しなければなりません。毎年、この有名な民謡を誰が最も上手く歌えるかを競う大会が催されます。起伏に富んだ旋律に人々は酔いしれ、安来節を初めて聞いた外国人は、その幅の広い音域の変化に驚き、歌い手の力量に対し賞賛を惜しみません。

元来、この歌は江戸時代末期の一八三〇年から一八四四年にかけて、日本海各地の港からやって来た船乗り達を迎える為に歌われていましたが、他の多くの民謡と混ざり合い、安来で料亭の主人でもあった優れた音楽家、渡部佐平衛の手により今日我々が耳にする安来節へと変化を遂げました。佐平衛の娘、お糸は八歳から安来節を歌い始め、彼女の名はその美しい声と共に広まって行きました。

その後、お糸は当時名を馳せていた三味線奏者富田徳之助と手を組みます。三味線は安来節で重要な位置を占めており、現在は定型化されている三味線の演奏方法と安来節の歌唱方法は明治時代にはかなりの裁量が許容されていました。安来節と、徳之助の三味線に合わせてお糸が歌うという形が多くの人々に受け入れられて行くに連れ、二人は安来節本来の姿を保護する必要性を感じ、一九一一年、「正調安来節保存会」を結成します。これを機に、歌い手には正式な等級が付けられる様になりました。

大正時代以降、安来節は定形化され、それが歌い継がれ今日に至っています。しかし、現在でも歌い手の気持ちを歌に込める点ではある程度の裁量は許容されています。安来節は喜怒哀楽を始めとする人間のあらゆる感情を表現し得る歌なのです。

島根県は去る六月、ニューヨークで島根文化祭を開催し、そこで安来節も披露されました。公演を見に来ていた友人のランディ-・クインビー氏は、島根が懐かしいと言っていました。彼の話では、会場はこれ以上入れないというほど満員で、立見の人も多く、誰もが島根の素晴らしい文化に魅了されていたという事です。彼らが島根を訪れてくれる事を願います。