味耜(あじすき) - Ajisuki

自分たちの歴史や伝説を知らない人々にとり、最初の鉄と鋼の神は須佐之男であったのかもしれません。須佐之男がこの地にたどり着いたのは、弥生時代の初期であったとも考えられます。須佐之男は、ヤマタノオロチの尾から一本の剣を見つけた神です。剣は戦の中で用いられる武器であることから、須佐之男は平和を愛する男であった、とは言えないようです。伝説によると、須佐之男は乱暴者として有名だったということです。

最終的に須佐之男之の王国は最終的に九州の北沿岸から本州の高志(こし 現在の富山県)にまで達します。そこを後にした須佐之男は、自らの最後の王国「黄泉の国」へと旅立ちますが、彼の後継者たちは無能で、とうとう須佐之男の国は分裂してしまいます。

2番目の鉄の神は、大国主の息子・味耜であったとも考えられます。味耜に関してあまり多くのことはわかっていませんが、8世紀の初頭には、出雲地方にあった122の神社のうち44で祭られていました。「桑と鋤(すき)の神様」味耜は、しばしば「黄金の鋤の神様」とも呼ばれます。また、農機具に用いる鉄の神である味耜は、数多くの農業技術を伝授しました。彼は「農業の神様」でもあるのです。その名をしばしば「あじき」と縮めて呼ばれる味耜ですが、三朝温泉を見つけたのは彼であるといわれています。

当時の味耜は言葉を話せなかったといわれることから、身重の女性は生まれてくる赤ん坊が同じ目に会うということで三朝に行くことをいやがったり、そこで獲れた米を口にするのをいやがるということです。事実、三朝温泉を見つけたときが味耜が初めて言葉を発したときでした。味耜は「父上、あれが私の場所です」と大国主に言ったのです。

しかしながら、私は彼の名前は本牟知別(ほむちわけ)ではなかったかと思います。彼は、出雲との統合がなされたとき、その取り決めを強固なものにすべく実の父親であった天皇の代理として出雲に遣わされました。本牟知別は口が聞けませんでした。 本牟知別は、大和の国とのより友好的で平和的な関係を築くために大国主のところにもらわれます。賢明な指導者であった大国主は、取り決めに従うことですべてを手に入れることができるというときに、自分の国の民にいらぬ労苦を強いるような戦はしたくないと考えていました。

本牟知別という名は出雲の言葉・味耜に変わります。ワケという言葉は、その人物が皇族の一員であることを示します。の出雲への旅は、古事記と日本紀にたいへん詳しく描かれています。この伝説は斐伊川についても述べています。 これによると、本牟知別は三人の王と共にこの地にやってきたということです。王たちが大和の国に戻ったかどうかに関する記述は見当たりませんので、正確なところは定かではありません。ほかにも大勢の男たちも出雲の国に遣わされますが、出雲がたいへん良い所だったため、彼らは大和の国の支配者から罵倒されても帰りたがりませんでした。

この地に30年以上暮らしてきた私としましては、この考えに同意するほかはありません。この物語は、天皇が自らの子息を、安寧を保つためにそして皇族に対する親近感を出雲に植えつけるために送り出した、という点においてたいへん示唆に富んだものです。言葉を発することのできなかった本牟知別がシャーマンになれなかったのは言わずもがなです。

そしてこのことが皇族にとっての本牟知別の価値を減じてしまったわけですが、彼は出雲にいる間に言葉を話せようるになり名の知れた神になります。本牟知別がこの地で受けた治療は情のこもった優しいものであったと思われます。私は常々出雲の国の人々はすばらしいと言ってきたではありませんか。