大水神 - Omizunu

しばらくの間中断していましたが、「国引き伝説」を創造し、須佐之男の息子であったとも考えられている大水神(オミズヌ)について考察していきましょう。この伝説も、ほかのすべての伝説同様口から口へ伝えられたものですが、たいへん根強いもので決して失われることはありませんでした。実際、今日これまでになかったほど強固になっているのです。

日本最初の歴史書・古事記(712年)と日本紀(720年)には、大水神の名前こそ出てくるものの彼の伝説は紹介されていません。それは、733年に編纂された出雲の国風土記にのみ登場します。時の天皇によってその編纂の命が出されたのが713年だったことを考えると、完成までに随分長い年月を要したことになります。出雲の国風土記を執筆した当時の出雲の国の支配者の孫に当たる人物は、自らの知識と発見したことをすべて書き記しました。こうした事実や伝説は現在も収められています。

1936年を境に出雲の国風土記は、神道における儀式の文例集となり、世界中の学者たちにとり偉大な文学的財産となりました。 須佐之男が彼の最後の王国・「黄泉(よみ)の国」へと旅だったとき、彼の後継者の一人であった大水神は、自分に与えられた土地があまりに小さすぎるという結論に達し世界のほかの場所から土地を引っ張ってきて自分の土地をもっと広くすることを決意します(次の物語を参照)

伝説によると、余っている土地はないかと北方に目を向けた大水神は、朝鮮半島の任那(みまな)にいくらかの土地を見つけます。これは日本が新羅と中国の連合軍との戦いに敗れ任那を失った西暦562年ごろに起きた出来事のようです。このとき、日本と友好関係にあった百済もまた滅亡します。 当時、朝鮮半島から多数の農民や芸術家、および技術者たちが出雲の国に渡り歓迎を受けました。

当時の朝鮮半島は「しらが」と呼ばれ、かの地における日本の領土・任那に暮らす人々は日本の人民であると見なされていました。こうした移民たちは、国引き神話の中の四つの段階の一つの事実であると考えられています。 出雲の国がすばらしい土地であることがわかったほかの人々も移民として出雲の国に渡ってきました。共に力を合わせた移民たちの波は、「国引き伝説」の四つの段階に生命を吹き込んだのだと思います。