国引き伝説 - The Land Pulling Legend

国引き伝説

島根県内では「国引き」の名を冠した橋や建物、および道路がいたる所で見られます。 神話と伝説の国・出雲の歴史が、そこに暮らす人々に忘れ去られることは決してないのです。そうした物語の中の一つに偉大な神・臣津野(おみずぬ)を描いたものがあります。臣津野は大国主と兄弟であったという声もありますが、定かではありません。

出雲の国の支配者となったとき、自らの土地があまりにも小さすぎると思った臣津野は、それをもっと大きくしようと決意します。そして、使えそうな余っている土地はないものかと辺りを見回すと、いくつか目に付きました。かつて日本が支配していた朝鮮半島のカヤ、それが臣津野が最初に見つけた土地だったのかもしれません。

多数の避難民が日本に逃れてきた562年、日本は古代「しらが」と呼ばれていたとも考えられるこの土地を失います。 臣津野は、三本の小さな縄をよって作った大きな縄を取り出し、それを女性の乳房に似た形の錨(いかり)に結び付けその土地に向かって投げつけ「くにこ、くにこ」と言いながら大きな船を引っ張るかのようにゆっくりと引き寄せました。臣津野の使った縄は、三瓶山に結び付けられ薗長浜(そののながはま)となり、土地は杵築の岬となりました。そこには現在出雲大社が建っています。

さらに、屏風岩のある因幡海岸もその土地の一部でした。7世紀には出雲の国と大和の間の平和を目指した話し合いがこの海岸で行われています。次に東方に目を向けた臣津野が、高志の国(北陸地方)の「都都(つつ)」という場所に土地を見つけたことをいくつかの物語は伝えています。臣津野は、今度はむちを火神岳(ひのかみのたけ)・大山に打ちつけ再び「くにこ、くにこ」と言いながら土地を引き寄せました。

この土地は現在の美保関となり、縄は夜見島(よみしま)となり現在は弓ヶ浜の海岸になっています。このように、出雲の国は島根半島の東側に当たる部分が引き寄せられて大きくなったのです。 また別の伝説では、3番目の土地が朝鮮半島の佐伎(さき)から持ってこられ、多久の岬となり佐田と呼ばれました。4番目の土地はヌナミ(所在地は不明ですが、西方にあった可能性を指摘する声があります)という所からやってきた、タシミ岬から広がる闇見という土地であったと考えられています。黄泉が弓ヶ浜になり越が富山になるなど、古代の物語の中でのこうした地名はかなり異なっています。

古事記が編纂されていた時期の支配者たちの意に添うものではなかったこの伝説は、彼らのある種の正当な血統のためにほかの多くの物語りと同じように除外されてしまいます。こうした物語を収めたとしても彼らの血統の正当性は保たれたのに、愚かなことをしたものです。

真に偉大な国の歴史の真実の一端をこれらの伝説は物語っています。単に便宜のためだけにこれを修正してしまわぬよう努めようではありませんか。それは、すばらしい歴史と文化の国・日本、ひいてはこの国の人々までも偽ってしまうことを意味するのです。