平塚運一(1885〜1997*) - Unichi Hiratsuka

著名な木版画家、平塚運一は1885年11月、松江に生まれました。父親は宮大工で、このことが後に彼が木彫りに関心を持つきっかけとなったと思われます。いわば「親の後を継いだ」とも言えます。

1913年、運一は松江市役所に採用されます。ここで上司から受けたいくつかの教えがきっかけとなり、芸術の世界に足を踏み入れる決心をします。万葉集や中国の古い詩集「唐詩選」も運一の人生と作品に多大な影響を与えたようです。

その後、師事していた石井拍亭に才能を見いだされ画家を目指すことを決意した運一は、1915年に上京し、川端画学校でスケッチを学ぶとともに、伊上凡骨が主宰する版画学校で、木彫りの勉強に励みます。

このときの経験が、その後の木版画家、画家、刷り師としての彼の経歴の基礎になっています。

1917年、松江に帰った運一は花森英野と結婚します。奥さんにするなら山陰の女性です。もちろん私の家内もそうです。 1918年、運一は美術の教師として津田小学校に勤務します。このとき、島根県内で活動する陶芸家、かすり職人、八雲塗り職人たちへの指導も依頼されています。

1925年、運一は仏教版画の勉強と収集を始めます。また、古代の屋根瓦の模様についての研究を重ね、長い歳月をかけて有名な仏教版画や武蔵国分寺の屋根瓦を収集しました。

このコレクションは、たいへん価値のあるものです。 著名な版画家で画家の棟方志功も、1927年、運一の下で美術の勉強を始め、二人は同人誌「版」を発行しています。

平塚運一は、国立東京芸術大学の前身である東京美術学校で最初の木版画の教師でした。

1943年には、北京国立美術学校に招聘され教えています。 その後、ふるさとへの望郷の念から1946年松江に戻り、田部長右衛門の助力を得て松江工芸学校を設立しました。

1962年にはアメリカのワシントンD.Cに学校を移し、ワシントン現代美術館やバージニア美術館などでたびたび個展を開き、自宅やいくつもの学校で墨絵や木版画の教室を開きました。

1977年には、日本政府から勲三等瑞宝章を贈られています。 島根県立博物館の設立20周年を記念して、個展が開催された際、木版画、スケッチ、水彩画、油絵、そして運一のそれまでの65年の経歴が展示されました。

数多くの展覧会を開いてきた平塚運一も、既に90歳を超えています。現在はワシントンD・Cに在住し、今なお精力的に制作に取り組んでいます。 75年に及ぶ作家人生の中で、平塚運一は日本中で木版画教室を開いてきました。

彼は、伝統的な日本の木版画の手法を継承する最後の画家です。彼がいなくなったとき、だれが後を受け継ぐのでしょう。

※ この記事は、平塚運一氏が逝去される1997年以前に書かれたものです。