ゴールデンウィークと教育 - Golden Week and Education

今年もゴールデン・ウィークが巡ってきました。初日に当たる4月29日は、以前は昭和天皇の誕生日でしたが、亡くなられた後は「みどりの日」と名前を変えて祝日として残っています。「みどりの日」というのは、日本の休日にふさわしいいい名前だと思います。

この季節は、緑が至る所に溢れています。緑は私の好きな色の一つで、この季節も好きです。 ゴールデン・ウィークについては以前にも書きました。ご存じのように、子供の日はだれにとっても楽しみな日のはずです。子供たちは、私たちの人生を満ち足りたものにし、幸福をもたらしてくれます。

私には、あちこちに子供の友人がいます。彼らの持つ素直さと純粋な考え方が好きなのです。多くの親たちが、自分の子供をまるで人形のように思っています。確かにそうですが、彼らは身の回りのあらゆる物事から、たとえそれがどんなに小さなことであっても何かを見つけ出してくる好奇心おうせいな人形なのです。

彼らは大人が考えるよりずっと人生についてよく知っています。おそらくはテレビの影響でしょう。しかし一方で自分の父親の職業を知らない子供が大勢います。これはたいへん奇妙なことで、またとても悲しい話です。私には信じられません。

アメリカの子供はみんな自分の父親の職業を知っています。そのことがよく学校で話題になるため、知っていなくてはならないのです。だれもが、友だちの家のことを知りたがります。どんなテレビを持っているか、どんな車に乗っているか、ビデオデッキはあるか、CDはあるかなど、子供たちは生活に対してとても興味を持っています。 アメリカは、のびのびとした教育制度で知られていますが、それだけでなく、子供たちの想像力を育てることでも高い評価を得ています。

このことは、1987年の時点でノーベル賞受賞者が日本はわずか七人なのに対して、アメリカでは百八十一人も受賞していることから明らかです。 日本の、大学に入学するまでの厳しい教育制度を考えると、この数字は本来逆であるべきだと思うのですが、そうでないのはなぜでしょう。

日本人は自分たちができる仕事に対して、もっと賞をもらってもよいと思うのですが。今や世界一豊かな国になった日本なのに、経済に関する賞は一つもありません。 だれか教えて欲しいのですが、なぜ、子供たちの持つすばらしい個性や想像力を犠牲にするほど厳しく彼らに教える必要があるのでしょうか。私には不思議でたまりません。単に大学に入るために払う代償としては、あまりにも高すぎます。

これから自分の子供を大学に行かせようと考えている方は、外国の大学に入れることを検討されてはいかがでしょう。遠くはなりますが、たいへん優れた教育を受けることができます。想像力が養われ、学費も決して高くはありません。 日本の大学に勤務している外国人教授の間では、この国の大学がジョークの種となっています。

日本の学生にとって、大学生活の目的は勉強ではなく遊ぶことのようです。大学を卒業して社会人になってからの仕事ぶりを見ると、なるほどと思います。大学で学んだことが専門として認められることはなく、企業もそんなことは気にしていないようです。日本企業は社員の個性や大学での専攻分野など関係なく、新入社員は企業の要求に合わせて訓練すればよいと考えているのです。これこそ、悲劇ではありませんか。

日本の大学制度は、想像力を犠牲にしなくても入学できるように変更する必要があります。そして、企業の経営者は、社員の専門分野を活かし、新入社員が想像力を働かせて会社、自分自身、そして世界のために貢献できるようにしなければなりません。

そのときこそ、日本社会の中で個人がきちんと確立されるようになるのです。 私の目には、結果の重大さに気付かないまま、企業の利益のために個人が使い捨てられているように見えます。