小像、像、墓 - Figurines, Images and Tombs

小像、像、墓

ご存じのように、寺や神社に行けば、多くの彫像や彫刻を目にすることができます。 縄文時代(紀元前12000年〜紀元前300年)の遺跡からは、粘土で作った平らな像が発見されていますが、表面の模様は日本各地で大きく異なります。このことはアメリカの原住民やそのほかの民族と同様に、日本でもいろいろな部族に固有の文化があったことを示しています。長い間、小像が発見されても壊れているのが普通でした。

この事実は、当時、人々の災いや病気を人形に封じ込め、その人形を魔よけのために焼いたり川に投げ捨てる古い習慣があったことを想起させます。墓から発見されるほかの像は厳しく恐い顔をしており、死者を守るために作られたものと思われます。この像が発見される時代は、アイヌ民族が日本中に居住していた時代です。後に日本に渡ってきた移民たちによって新たな習慣も持ち込まれましたが、「古いもの」もある程度残りました。 新たに持ち込まれた彫像の中には、大きな胸とおなかを持つ女性の像がありました。このことから、当時の人々には多産ということが生活のたいへん重要な要素だったことがわかります。

やがて、仁徳天皇(400年頃没)陵など、巨大な墓の時代へと移ります。墓の中から多くの馬具が見つかっていることから、弥生時代後半におそらく騎馬民族が襲来したことによって墓が巨大化したのではないか、と多くの研究者が指摘しています。後期の古墳では、馬具はより手の込んだものになり、モンゴルや中国の影響を見て取ることができます。この時代は古墳時代(300年〜710年)と呼ばれるようなりました。 「埴輪」は立体的な像で、新たな文化が侵入してきたことを物語っています。