出雲の国と大和 - Izumo no Kuni and Yamato

古代の伝説によると、出雲の国はかつて富山、能登半島のあたりから九州北部の一部まで広がる強大な王国であったということです。これは、彼らの力と宗教的権力よるものであったと思われます。実際にこのことが最も顕著に表われるのは、邪馬台国の女王・卑弥呼と大国主命についての伝説においてです。

後に須佐之男がこの世を去ると、話し合いと指導力の欠如からこの偉大な王国も崩壊するに至ります。日本最古の書物である古事記には、この中の一部が日本の王国の起源だった可能性を指摘する記述が見られます。絶えずほかの国の指導者たちと戦をしていたこの国の最後の長(おさ)たちは大半を支配するに至りますが、自分たちの国を完成させるうえで出雲の国の力がどうしても必要でした。

出雲から大和の王国への統合の同意を取りつけるべく、大和の皇帝は四人の使節団を調停のために遣わしますが、最初の三人は出雲と大国主の側についてしまいます。最後の一人がうまく話をつけ、大和は偉大な指導者がその地位にふさわしい崇拝を受けられる壮大な宮殿を出雲地方に建てることに同意します。そして、その神社こそ出雲大社だったのです。

このことは、当時の出雲の国の強さを示しています。そのころはまだ神道が生まれておらずシャーマニズムが優勢でした。須佐之男、大国主双方ともシャーマンだったといわれています。伝説によると、大和地方の支配者は出雲の国に敬意を抱いていたとされています。そして、それは今日までも受け継がれているのです。