神話と伝説の記録 - Recording Myths and Legends

偉大な食物の女神の額で見つかった稲は、高天原に植えられます。そして秋がやってくると、それが大きな稲穂を付けるとても発育の良い稲であることが証明されました。その稲は天照ですら胸を打たれるほどたいそう美しいもので、それゆえ太陽の女神は稲を極上の植物として自ら聖別しました。

古代の物語は、それが常に現実と結びいていることを私たちに教えてくれます。古い書物を読み進めより多くを学んでいく中で、われわれの注意を引き付ける歴史的史実に不思議な思いがします。すべては生きる中で最終的に何らかの形で交じり合うのです。われわれが日常の生活における出来事と神話や伝説との間の関連に目を向けることで、それらに生命を吹き込むことができるのです。

古代の物語はすべて、8世紀に書かれたわが国最古の書物である古事記と日本紀、および出雲の国風土記に収められています。しかし、それらがすべてまったく同じというわけではありません。 そのような行いは男らしくない、という当時のこの国の指導者たちの発想は、書くという行為の日本への導入を遅らせました。後にそのことの価値を認識するに至った彼らは、自ら読み書きを学ぶようになります。それ以前、手紙や記録は中国や朝鮮半島から渡ってきたと思われる使用人たちによって書かれていました。

文字を書くという行為が真の意味で日本に出現するのは、仏教が伝来した8世紀になってからのことです。それより以前、中国語でものを書く聖徳太子(574-621)の名は広く知れ渡っていました。たいへん聡明であった太子は、何よりも日本のことを考えその発展に尽くしました。 太子が中国語で書いた「行動の規範(十七条憲法)」には、儒教や道教、および仏教といった中国の思想がふんだんに取り入れられていました。 残念なことに、これは彼の寺院であった法隆寺が火災に見舞われた際に焼失してしまいます。

前の紙幣には太子の肖像画が描かれていましたが、聖徳太子ほど重要ではない別の人物に取って代わられてしまいたいへん残念です。 政府のすることにそこまで疑問を呈することはできません。しかし、彼らは間違っているのです。聖徳太子はすべての子供が知っていますが、現在紙幣に描かれている人物を知っている子はごくわずかです。私には政府の決断が間違ったものであるように思えます。

日本最初の書物・古事記についてはこれまでにも幾度となく述べてきましたが、これは7世紀後半、時の天皇の命により、たいへん優れた記憶力の持ち主であった阿礼が執筆して編纂されたものです。前の天皇が崩御した後新たに即位した天皇は風土記の編纂を命じ、古事記同様阿礼は、述べられたことをすべて書き取っていきました。政治的な目的のためにいくつかの改ざんが行われましたが、それは阿礼の手によるものではありません。物事はそのようになされてきたという点においてそれは歴史の常といえるのではないでしょうか。残念ですがそれが事実なのです。