邪馬台国 - YAMATAIKOKU

邪馬台国

邪馬台国の存在は、中国では300年にわたって知られており、その間、両国の間では友好関係が続きました。交流の初期、日本にはまだ文字がありませんでしたが、使節たちは危険を顧みることなく往来していました。旅の途中で数多くの者が命を落としましたが、数世紀の間多くの交流が続きました。

中国の記録によれば、当時の日本人は小柄だったため、中国人は彼らの国を倭と呼びました。これは中国語で「小さな人」を意味します。 また、100を超える王国が、ほとんど絶えることなく争いをしていたという記述もあります。この戦いも最後には終わりを迎えます。 邪馬台国の人々についてよく知っていた中国人は、邪馬台国とそのたいへん高度な社会、中でも女王について詳細な記述を残しています。

多くの王国が互いに争っていましたが、巫女であった女王により統一が果たされました。 彼女は、名を卑弥呼といい(中国語ではヒメコまたはピムコと呼ばれました)、強大な権力を手に、自らが統治した時代(170〜247)、国内において平和を維持しました。ただし、外国からの侵略を除いてです。そうした国は、フィリピンまたはマレーシア、あるいはその両方ではなかったかと思われます。彼らは「クヌ」や※「くまそ」などと呼ばれ、絶えず邪馬台国に対し戦いを挑んできました。

卑弥呼は、外敵に対抗すべく中国に頻繁に支援を求めましたが、中国からは激励の文書と品物が送られただけでした。そのうちの一つが福岡県の海岸で発見されています。それは金のお守りで、「倭の王」に送られたものでした。このことから、邪馬台国は当時、九州に存在していたものと思われています。 卑弥呼が死去すると巨大な墓が築かれ、100人を超える従者が殉死し、彼女と共に埋葬されました。この墓はいまだに発見されていません。

卑弥呼の地位を継承すべく、王が選ばれましたが、間もなく内乱が起こり、13歳の少女が女王に即位し、邪馬台国に再び平和が訪れました。新しい女王壱与(あるいはイチョまたはイチヨ)は、中国との交流を続けていきます。しかし、266年、倭の国と中国との通信はとだえ、150年後に中国人がその地を再訪したとき、倭の国はすでに消滅していました。 邪馬台国が消滅したといっても、国が滅びたということではありません。

邪馬台国についての私の説は次のようなものです。出雲の国は誕生したときからこの名前だったわけではなく、違う名で呼ばれていました。それがどのような名前であったかは不明ですが、「投馬(トウマ)」という古語であった可能性があります。この国は、紀元前300年ごろに中国から渡来したとされるスサノオの統治の下、発展していきます。中国の秦の皇帝は、若さの泉を見つけるため、3000人の職人を東方に送りました。当時の船は丈夫なものではなく、さらに、皇帝の言った「東」という言葉からみて、船は大きな山、大山を目印に日本の北岸に漂着したものと思われます。

彼らは沿岸一帯に定住するようになります。この地域には、気性の穏やかな農民や漁民が住んでおり、彼らは流れ着いた者たちを喜んで受け入れ、渡来人たちの知恵を生活の向上に役立てました。その結果、彼らは後に出雲の国と呼ばれるこの地域で指導的役割を果たすようになります。出雲の国の起源は杵築(きづき)地域にあり、名高いシャーマン、スサノオの強力な支配を受けました。 スサノオによる統治の下、出雲は勢力を拡大していきます。彼は、ヤマタノオロチの神話に登場し、人々に農業やそのほかの技術を伝授したことで知られています。

これこそ、明らかに最初の邪馬台国の始まりでした。邪馬台国の人々は中国から渡ってきたため、精神的には中国に近い国でした。「ヤマ」(邪馬)は大山を、「ダイコク」(台国)は大きな国を意味しました。スサノオが造った王国は、数多くの子孫によって継承されていきました。当時の邪馬台国は、九州から能登半島にかけ広がっていました。しかし、子孫たちの多くは強い支配力を持たなかったため、邪馬台国はたくさんの小さな王国に分裂してしまいます。これは、スサノオが亡くなってから200年かそれ以上の間に起きたと考えられています。

王国のいくつかは九州に存在し、それらが卑弥呼によって統一され第2の邪馬台国が誕生しました。阿蘇山を自分たちの山と見なし、自分たちの国を「偉大な国」と呼んだことは、特に最初の邪馬台国の記憶や言い伝えに彼らがならったと考えれば、不思議なことではありません。新しい国が女王卑弥呼の下で栄えていくにつれて、マレーシアやフィリピンといった南の島々からの新しい移住者との間でもめごとが起こるようになりました。

この新しい移住者は、好戦的で、征服することに何よりも関心を持っていました。邪馬台国はたいへん統率の取れた国で、十分な防衛力も備えていましたが、絶え間のないいさかいや戦は自分たちの生き方に反するものでした。そして、ついに卑弥呼が死去し、前述したように埋葬されると、最終的な卑弥呼の後継者となった壱与は、数年間敵との戦いを続けた後、平和に暮らすにはほかの土地に移住しなくてはならないと決断するに至りました。

そして、四国や本州の南岸伝いに、邪馬台国の人々による大移動が行われたのです。壱与は100を超える王国を統治する力を携え、敵をすべて九州に残し、無事に移動を続けました。 そして、とうとう壱与と彼女の人民は、現在の奈良に到着したのです。当然そのような美しい場所にはすでに人が居住していました。そして、その土地は前述したように最初の邪馬台国の一部であったかもしれないのです。

壱与はこの土地を得るために戦わねばなりませんでしたが、粗暴な侵略者でなかった彼女は、間もなく先住民を同化させ、平和的な第3の、そして最後の邪馬台国を建国しました。彼らの国では、朝鮮からの第3、第4の侵略によって自ら同化されてしまうまで、平和が続きました。この邪馬台国の人々が、最終的にこの国を征服し、大和の国を築き、それが日本の国になったのです。 ※くまそは、九州南部(現在の熊本県から鹿児島県にかけて)勢力を誇った、勇猛な部族であったという説もあります。