国分寺と徭役 - Kokubunji and Yoeki

国分寺と徭役

国分寺は、奈良時代の8世紀、唐王朝(618〜907)にならって設置された朝廷の機関に端を発します。741年、聖武天皇により、すべての国に国分寺と国文尼寺を建立するようにとの詔が出されました。この事業は780年までにほぼ完了しましたが、その中心であったのが、高さ16メートルもの大仏を安置した奈良の東大寺です。

各国分寺には約20人の僧が、国文尼寺には約10人の尼僧が住みました。僧は国の安泰を祈ることをその役目とし、尼僧は罪をあがなうために祈りました。 国分寺や国文尼寺を建造する費用は、朝廷や「氏」と呼ばれる豪族たちが拠出しました。そして、実際の作業には農民が駆り出されました。これは、農民に朝廷の事業のために60日の無報酬労働を義務付けるという、大化の改新で新たに決まった労働税によるもので、必要ならばさらに長い日数働くことを強制されました。

豪族は絹、麻、綿、塩、鉄といった品物を納めることでこの義務から逃れることができましたが、貧しい農民たちは額に汗を流して働くしかありませんでした。60歳以下の成人は60日、61歳から65歳までの人は30日、17歳から20歳までの若者は15日間働くことを義務付けられました。 このような制度をフランス語で「コービー」と言います。

日本では、仕事の内容によってさまざまな呼び方をしました。労働税は初め、「徭役」と呼ばれていましたが、後に「夫役(ぶやく)」と呼ばれるようになり、寺院の建造は「公役」、公共事業は「雑徭」、都に十日間滞在して働くことは「歳役」と呼ばれました。今も残るこの時代の美しい寺院の多くは、こうした制度の下で建てられたのです。非常に効率的な手法のように思われますが、さて、当時の人々はどのように感じていたでしょうか。